当時のエース・パイロット、オスヴァルト・ベルケ(Oswald Boelcke)との出会いをきっかけに、彼は偵察員から戦闘機パイロットになろうと決意した。1916年3月、ベルケは自らの率いる第2戦闘機中隊 (独:Jagdstaffel 2) にリヒトホーフェンを配属した。彼の最初の空戦は1916年9月17日、フランスのカンブレー上空である。初撃墜の後、彼はベルリンに住む宝飾職人の友人に、空中戦の日付と敵機の機種を刻んだ銀杯を発注する手紙を書いている。彼はこの習慣を、ドイツが経済封鎖され銀の供給が途絶えた頃まで続けており、銀杯の数は60個にも達したという。
同僚や歴史家の指摘では、マンフレートは、弟ロタールほど飛行機操縦の天分に恵まれていたわけではないようである。マンフレートはベルケの提唱した空中戦理論を厳格に守ることによって、多くの撃墜数を挙げることができたといえる。
1916年11月23日、当時のイギリス最高のエース、ラノー・ホーカー少佐と交戦、45分に及ぶ激闘の末に勝利してリヒトホーフェンは有名になった。このころはマックス・インメルマン、ベルケなどの名手がスコアを荒稼ぎしたころであり、「フォッカーの懲罰」といわれるほどであった。リヒトホーフェンも1917年1月までに16機を撃墜してプロイセン軍人最高のプール・ル・メリット勲章を受章。
同月、彼はエリート・パイロットたちで編成される第11戦闘機中隊の中隊長に任命された。この中隊の機体には、戦闘中に敵味方を簡単に視認できるよう各パイロットごとに異なった塗装が施され、リヒトホーフェン機は全体を赤に塗られた。このことはドイツ国内のプロパガンダに使われ、敵にも「赤い戦闘機乗り」の名が知られるようになった。
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